墨絵の中のスヌーピー

http://hanahakurenai.jp/
古の、漢にゆかりの墨絵を礎に、光の中にスヌーピーの動き揺らめかむ姿、いとをかしけれ。という訳で(?)、
今回レヴューする「花紅」は、墨絵の世界の捉え方・表現技法と、
3Dモデリングによる表現のコラボレーションの原初的の試みにして、
既に芸術として高い完成度を誇る作品。
素晴らしい。


(※画像 バナーがなかったのでトップ絵を拝借して・・・ GREEでは表示されません)

ちょっと感想が長いのだが、
表現手法、ストーリー性、音楽性の順にレヴューしたい。

1. 表現手法
サイトhttp://hanahakurenai.jp/を見てもらっても分かるのだけど、
墨絵に特徴的な輪郭線、背景の濃淡、紅色でポイントを強調する技法、
共通パターンを抽出して、CGで描いているのだけど、それが実にgood blendingなのだよね。

例えば輪郭線。
墨絵では、まっすぐに、すーっと伸びる線を描く時には輪郭線が固く、シャープに、細くなり、
曲がったり、歪んだり、弛んだりしている所では、輪郭線がぐぐぐっと太くなる。

この作品でもこれが忠実に再現されている。
しかも輪郭線を透過させることで、墨絵によって描かれる柔らかい味わいを表現している。
岩の周りをカメラが移動して、後ろの岩と手前の岩の輪郭が重なる時や、
蓮の花の花びらが重なり合う時は、この透過性がよく活きる。
CGではよく透過が使われる(パワーポイントにも機能があるくらいだからね)のだが、
それを墨絵の濃淡に使うという発想がよいと思う。

他にも、例えば墨絵の視点のとり方をCGに応用する手法も面白い。
墨絵や江戸以前の日本画は、西洋画に代表される客観的な空間の描写をしていないことが一般的。
例えば鳥獣戯画では、途中から書き手の視座が移動することで有名。
(今度時間があったら例を入れます)

たとえ一枚の絵の中であっても、強調したいポイントがいちばん伝わるように、
対象を見るアングルを変えているんだよね。
結果として、一枚絵の中で複数のアングルが共存する。
主観的な世界描写だからそれでもいいや、という事だ。

ところが、一枚のアングルの中に複数の視点を共存させる手法はCGと相性が悪い。
上下感覚や地面の曲面がどこにあるかが、途端に分からなくなってしまう。
実写も含め、一般的に映像作品では、視点を変更する時はカメラ自体が切り替わるか、カメラが動く。
CG映像の制作過程でいえば、カメラアングルを1つに特定して、そこから各対象物のアングルが一意に決定される。

ではこのCG作品ではどうやって視点の主観性を表現しているか?
この作品では、視座を移動させる代わりに、
主人公が注意を向ける方向の対象物がゆっくりとフェードインしてくるという方法で、視点の主観性を再現しようとしている。
今はこの対象を見ているんだよ、というのがよく分かる。
注意の遷移に応じて、意識の霧の中から対象が浮上してくるようだ。
しかも、それが巧みに幻想的な雰囲気を醸し出している。

5つのディスプレイが互いに同期をとりながらこれを映し出すのだけど、
それがまるで横に長い絵巻物を右から順に読んでいる感覚にさせてくれた。
実際にディスプレイが移動するわけではないのだけど、視点移動の妙です。

2.ストーリー性
上述した通り、見た目で「墨絵が動いてる!」というインパクトは絶大なんだけど、
ストーリーの良さも忘れてはいけない。

テーマは、「悟り」(だと思う)。
犬小屋で寝いる犬であるスヌーピーと、
高度な精神的活動である悟りを結びつける発想がすごいんだが・・・

主人公のスヌーピーは、初め日本風? 寝殿造のような建物の縁側で
眠るように、思索に耽っている。
蓮の花が一輪彼の前に佇んでいる。

気づくと主人公は蓮の中の世界に迷い込んでいる。
はるか上空には5連の龍が舞っている。
鳥獣戯画に登場するような蛙や兎が、自分を中心にして踊っている。
牛車や米俵が出てきて、スヌーピーはその中心で担がれる。
享楽的なお祭り騒ぎが続き、そのまま一行は竹藪の中に入っていく。
次から次から群竹が現れ、藪には終わりがない。

やがて空から一羽の鶴が舞い降りる。
蛙や兎に担がれたスヌーピーの肩をつかみ、大空へと彼を誘(いざな)う。
蛙と兎達はスヌーピーを取り戻そうとするが、竹藪を抜けた孤高の鶴にはもはや届かない。
スヌーピーは迷妄の藪の上を目指す。

雪の降る中、群飛する鶴がどこかへ向かっている。
スヌーピーもその中の一羽に跨がり、どこかへと向かっている。
米俵や牛車でお祭騒ぎをしていたさっきの光景から比べたら、雪の降る冬空は寒く、凍えるようだ。
しかし空気は冴えきり、遠くの山まで見渡す事ができる。

「自由は、山頂の空気のように、強い者にしか堪える事ができない」と漱石が喝破したように、
この寒空は心の弱きを容赦なく挫くように見える。
スヌーピーは米俵を捨て、お祭り騒ぎを捨て、雪の中に何かを見いだしたように思われる。

やがてスヌーピーを乗せた鶴は、冬空からモノクロの蓮の蕾の園に舞い降りる。
一群の鶴はここを目指していたのだ。
釈迦が菩提樹の下で悟りを開いたように、蓮の園はスヌーピーにとって「悟りの園」となる。
スヌーピーは、すべての蕾が開花し、鮮やかな紅色を放つ様子を刮目する。
悟りは、米俵や蛙兎の祭りの中ではなく、花紅(はなくれない)の中にあったという事だ。

スヌーピーは元の庭で目覚める。
泡沫(うたかた)の微睡(まどろ)みの中の悟りであった。
一輪の蓮が、静かに、スヌーピーを見守っていた。

この作品はスヌーピー展に出展されたものなのだけど、これは際立って素晴らしい。
実際にはお祭りが享楽を表現しているとか、鶴と雪空が修行を、蓮の開花が悟りを象徴しているとかは、
勝手に解釈しただけなんだけどね。はい。
こう考えると初めに登場した5連の龍は「とどかない目標」を象徴して、主人公を惑わす役割を担っていたのかな。
解釈を遊べるのも、ハリウッドとは違う良いところ。
その人の人生経験が深まると、作品がもっと深く楽しめるようになるからね。

3.音楽性
ラストは音楽性。
テクノ系の合成音と、竹笛や寺鐘の音(!)などの日本的な音がベストにミックスされている。
メロディーラインの設定も、アジアンなペンタトン? レ・ミ・ソ・ラ・シのみで構成される旋律、といったらいいのかな?
西洋の7階調の音ではなく、アジア的な音階がメインなんだけど、
それを支えるコードは西洋音階なので、このミックスもものすごく面白い。
砂嵐のノイズ音を入れるような、極めて現代音楽的手法が用いられているのに
それが竹笛とシナジーを出し合えるのは面白い。

結局僕はこの作品に感動して泣かされてしまった訳なんだが、音楽の貢献も多分にあったと思う。
特にラストでスヌーピーが悟りを開き、意識がホワイトアウトする箇所では
アジア音階の竹笛の演奏が終わった後に、ゆっくりと西洋音階のベースコードが入ってきて、
音楽のクローズと物語の終焉を演出する。

総括
この作品の全体を総括すると、
墨絵と雅楽をモチーフに、日本が昔から培ってきた造形的、世界観的、音楽的な美意識を取り入れ、
もう一方で1)西洋文化に発したマンガであるスヌーピー、2)現代の3D空間の2D映像化方式であるCG映像技術、3)西洋音階とシンセを用いた現代の音楽技術、を取り入れ、
それらを止揚した芸術作品であり、
今まで誰もなし得なかった形で日本の芸術表現の最前線を開拓したと言って良いと思います。

(作品の購入方法が分かったら別途書きます。分かったら教えてほしいという人は→メールフォームから。確約はできませんが、できるだけ。)

後日追記
http://www.dinos.co.jp/defaultMall/sitemap/CSfLastGoodsPage_001.jsp?DISP_NO=005018010004&GOODS_NO=412003
作者からの情報で、ここで買える事が判明。